柴田勝家は大永2年(1522年)~大永7年(1527年)頃に、
尾張の愛知郡上社村、現在の愛知県名古屋市名東区で生まれる。
若い頃から織田信秀の家臣として働き、
尾張愛知郡下社村を領した。
天文20年(1551年)に織田信秀が病死し、
織田信長が後を継いだ頃には家老?的な立場であったが、
弟の織田信行に家老として仕えた。
その後、信行のクーデターに乗って負けたり、
2回目のクーデターでは密告したりで、
結局は信長の家臣になった。
が、
一度裏切った為かどうか分からないが、
尾張統一戦や、
桶狭間の戦い、
美濃攻めなど、
初期の有名な戦には参加させてもらえなかった。
上洛するにあたって再度重用され、
それからは、あっちこっちでの戦で功を重ねて、
越前49万石、北ノ庄城を与えられた。
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が落命、
長男・信忠も二条新御所で落命した頃、
柴田勝家は越中の魚津城・松倉城を攻略中だったため
弔い合戦に間に合わなかった。
本能寺の変後、織田家の後継者問題で、
柴田勝家、三男・織田信孝vs
羽柴秀吉、信長の長男・信忠の長男・三法師の図式になり、
筋に従った形をとった秀吉・三法師が勝利した。
その後、なんだかんだ色々あり、不満が溜まった柴田勝家は、
賤ヶ岳で戦をして秀吉に負け、北ノ庄城に撤退して自害した。
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