織田信長の幼馴染だった丹羽長秀は、古くからの旧臣と言える人物。
あの有名な1560年におこった
桶狭間の戦いでも大活躍!
褒美に領地を加増され存在感を高めた。
1568年の織田家の上洛戦でも六角家の箕作城を秀吉らと協力し、
落とすなど結果を残しました。
丹羽長秀は戦ばかりではなく内政に関しても有能で、
攻め取った新しい領地を管理し、
織田家の財政を支えていた。
その後、姉川の戦いやいろんな戦いで勝利して佐和山城の城主になりました。
織田信長が足利義昭と対立した時、信長に戦用の大型船の建造を命じられ、
完成させた大型船で信長と出陣し足利義昭の城を攻略。
足利幕府を完全に滅亡させました。
安土桃山城築城の普請でも奉行として丹羽長秀が完成させました。
が、
本能寺の変が起こり、信長は落命。
大阪にいた
丹羽長秀は羽柴秀吉と合流し、
裏切った明智光秀を山崎の合戦で破りました。
で、
清州会議の際、古くからの付き合いがあった柴田勝家には付かず、
羽柴秀吉側に付き三法師を擁立。
柴田勝家とは違い、プライドを捨て新参者で百姓出の秀吉と手を組む事で
丹羽家を存続させる事に成功。
織田家存続にこだわった柴田勝家と、
新時代を羽柴秀吉と共に切り開いていく丹羽長秀。
状況分析能力の差が運命を分けた結果でしょう。
最後の居城北ノ庄城で51歳で病死をしました。